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瞑想の目的

瞑想の目的というのは、人々が瞑想をしたいと思うときに何をそのゴールとするのかということです。通常、生きている人には大なり小なり何かしら悩みがあり、その向こうに夢とそれにたいする期待というものがあります。


ある人々は生活のなかで悩みや不安があり、瞑想によってその精神的な苦悩から逃れたいと思います。

ある人々は人生に不満があり、それを解決するために、なにか霊的なスーパー・パワーのようなものを得たいと思って、この道に入ってきます。


そして瞑想の師たちは、ほとんど例外なく、瞑想をとおして普遍の平安とよろこびを獲得することができる、と言います。

そして、ジグザグに進む瞑想のプロセスが始まります。


私自身は、長い間、自分が何のために瞑想しているのか、はっきりと言葉化することができませんでした。なんとなく、瞑想することは自分自身を向上させ、精神性を豊かにし、人間として優れたものになる、というような想いがただ漠然とあったにすぎません。


しかし、実際問題として、瞑想にかぎらずどんなことでもそうですが、何かをやっているときには、自分がいったい何のために、何の目的でやっているのかということを、はっきり知っている(意識化できている)ということはたいへん重要なことです。


そして、そうしたときに、人々はおうおうにして否定形を用いて表現しようとします。何かをしたくないとか、何かから逃れたい、というような言い方です。どちらも否定形の一種です。しかし、現実の世界には否定形というものは存在しないので、否定形の望みはいつの間にか、どこかへ忘れ去られてしまうということになります。


はっきりと成果がわかるようにするためには、望みはかならず肯定形に置き換えなければなりません。そうすることによって、あなたの心(マインド)がはっきりとその意味とそこへいたる地図を手に入れることができるからです。


それでは、瞑想しようとするときの人々の目的とは、いったいなんでしょうか?

ある人が、悩みや不安があってその苦悩から逃れたい、と言うとき、その逃れたさきには何があるのでしょうか。彼(もしくは彼女)はいったい何が欲しいのでしょうか?


その答えには、人それぞれの性質や嗜好の違いによって、異なった言葉が使われます。

心の平安が欲しい、内側の調和を感じたい、永遠のよろこびとひとつになりたい云々ような異なった表現が用いられます。しかし表現する言葉は違いますが、望んでいる本質は実際のところ同じものなのです。


使われる言葉の違いは、ひとつの大きなクリスタルの結晶をさまざまな角度から見ると、光の反射角度のちがいによって別々な色に見えることがあるという現象と同じことです。

ある人の位置からは光が淡いアメジスト色に反射して見え、別な角度からは薄いピンク色に見える。しかし、見る角度によって異なった色合いに見えたとしても、そのクリスタルは同じひとつのクリスタルです。

だから、平安も調和も喜びも同じ一つのものを指し示しているいくつかの言葉にすぎないのです。私はここではとりあえず、「幸福」という言葉を使っておきましょう。瞑想は幸福を得るための不思議な方法論です。瞑想は幸福のレシピです。


ある人は、うるさい親から自立して、自由になりたいと思います。この場合の自由と幸福という言葉で指し示している本源(クリスタル)は同じものです。「普遍の平安」というのも実は同じものです。それは実際には、言葉では表現しきれないものなのです。

逆に言うと、ぎりぎりの範囲で使用可能な表現は、上記のように実はけっこうたくさあるのです。

知性的な人ならだれでも、こんな世界のありかたにいつか疑問を抱くでしょう。そうして、人生のある時期に精神世界の門が開かれます。そのとき、瞑想の目的は真の「幸福」を手に入れることです。

そして、この「幸福」を手に入れたいと思う強い精神的な欲求が、あれもしたい、これもしたいという、ほかの小さな欲望をすべて焼き尽くしてしまうまで、瞑想はあなたの最善の友として一緒に旅をすることになります。






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