瞑想というと、ふつう日本では坐禅を組むという姿を思いうかべますが、実際にはそれだけが瞑想のやり方ではありません。世界中には、多くの異なった瞑想の技法があります。
瞑想は大別すると二つの種類にわけることができます。
一つは、身体を動かさず(不動)に瞑想する瞑想法で、英語では「パッシブ・メディテーションPassive Meditation」と呼ばれます。
坐禅やヨガのトラッタック瞑想(ローソクなどの明かりを見つめる瞑想法)などは、この仲間にはいるといえるでしょう。
身体を動かさずにいると、動きたいというエネルギーが内側に向かい、最初は心のなかがより生き生きと活動的になります。
それを静かに意識している(観照)していると、いろいろと騒がしい内面の混乱と混沌が少しずつ収まってきて、あるときクリヤーな静寂の世界があらわれてくるのです。
たとえば、子供たちが池のなかで遊んでいるとき、水はかきまわされて濁っていますが、子供たちが池から出てしばらくすると、ゴミや泥は池の底に沈んで、水は再びきれいに透きとおってみえます。
同じように、瞑想をつづけていると、あちらこちらに散乱した心が、元の澄んだ状態に戻るということが体験されます。
もう一つは、身体を動かす瞑想法で、動的瞑想(アクティブ・メディテーションAcive Meditation)とも呼ばれています。
禅の瞑想のなかには、経行(きんひん)といわれる歩く瞑想法があります。
一日の坐禅会とか数日間の坐禅リトリート(摂心)など、長い期間瞑想するときには、座ってばかりいることは不可能ですから、このように座る瞑想と歩く瞑想を交互におこなうことになります。
坐禅の起源は、今から約2500年前にブッダ自身がおこない、弟子たちにも指導していた瞑想法です。
しかし現代人はそのころの人々とくらべると、はるかに複雑な生を生きています。
コンピューターを使い、あらゆる電磁波が地球空間に満たされている、ひじょうに忙しく騒々しい毎日です。
とくに都会に住んでいればなおさらそうです。ただ静かに座ることは、現代人にとってたいへんむずかしいものになってきているのです。
そのせいか、最近はかなり多くの動的(アクティブ)瞑想が増えてきています。
バパク・スブドという人が紹介するラティハンという瞑想法や、和尚のダイナミック瞑想、クンダリーニ瞑想などという瞑想法は、新しいタイプの瞑想法といえるでしょう。
これらの瞑想のあいだ、瞑想者は身体が激しく動いているにもかかわらず、心のなかが沈黙に満ちているという体験をするのです。その沈黙は、瞑想がもたらす不思議な至福でもあります。
伝統的な瞑想法のなかにも、スーフィーの旋回(ワーリンク)瞑想や呼吸法(ズィッキル)などは、この動的(アクティブ)瞑想の仲間です。
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