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瞑想の体験


瞑想の体験がある、と誰かが言うときには、ふたつの意味合いが考えられます。 ひとつは、瞑想した体験をもっている、という場合。

瞑想したことがある人は、ある意味では、すでにたいへん恵まれています。 なぜなら、瞑想という概念とその実習は、人類の歴史のなかでも、まだたいへん新しいもので、おそらく一万年以上はたっていないでしょう。

そして、ざっと見渡してみても、人間以外に瞑想する動物というのはおらず、サルや鯨が坐禅をくんでいる、などという姿は見たことも聞いたこともありません。

この地球上には約50億の人間がいるとされていますが、そのなかで瞑想という言葉を知っている人でさえ、ごく少数です。いわんや、瞑想をしたことがある人は、おそらく一万人にひとりくらいなものでしょう。地球上で、全部で50万人・・・、いるかどうか?


宇宙はたいへん微妙なバランスの上になりたっているといわれます。ほんの少しの変化でもクシャっとつぶれてしまうと聞いたことがあります。

ですから、人類が頭脳の上で発展し、物理や科学が快適な文明生活を創造する一方で、その物質をささえるための精神(非物質)がこの世に存在する必要があったわけです。

現在、この地球をおおっている狂気のような物質文明をささえるためには、最低でも200人のエンライトした師が必要だといわれるゆえんです。

もっとも、私はそれより100万人の瞑想する人のほうが、意義深いと思っていますが・・・、なかなか人は瞑想しないものです。


現世の利益と成功を追い求めるのは普通ですが、無心を追い求めて瞑想するという人は、そうそういるものではありませんから。 

もしあなたがそのひとりなら、<存在>はあなたを祝福している、ということを心にとめておいたらよいでしょう。


もうひとつは、瞑想のなかで常ならぬ状態を体験したことがある、という場合です。 通常、それはたいへんポジティブな意味合いで語られ、瞑想する人はだれもが、いつかは、なんらかの瞑想体験を得たいと思っています。

本来は、一回瞑想すれば、一回分の瞑想体験を得ているわけですが、そのような体験は「気分がすっきりした」とか、「静かな気持ちになった」というようなリラックスの体験として語られ、いわゆる大きな瞑想の体験とはわけられて語られるようです。


私がはじめてこのような常ならぬ瞑想の体験をしたのは、はじめて9日間の「ヴィパッサナー瞑想リトリート」に参加したときのことでした。

朝からづっと坐ったり歩いたりしつづけるため、最初の3,4日は体中が、とくに背中がギシギシして痛くてたまらず、それにつづく