瞑想との出会い

「瞑想」という言葉にはじめて出合ったのは、たぶん私が高校生の頃だったと思います。

それ以前に、一休さんや沢庵和尚さんの話などのなかで「坐禅」という言葉を聞いたことがありましたが、なんのことかはっきりとわからなかったし、話の焦点でもなかったので、せいぜいなにか不思議な知恵をさずける方法というような理解ともいえないようなあやふやなものでした。

中学・高校の頃、私はビートルズが好きだったので、よく彼らのヒット曲を聴いたり、ニュースなども雑誌などで読んだり、彼らの写真を切り抜いて部屋中に張りまくったりしていたものでした。

あるとき、ビートルズがインドに行ってヨガのマスターに会った、という記事とそこに写真があり、そのあたりから「ヨガ」と「瞑想」という言葉が私の頭のなかに入り込んだみたいです。

もっとも実際に「ヨガ」に出会うのはそれから何年も後になり、「瞑想」に出会うのはもっと時間がたってからになりました。


最初に体験した「ヨガ」は長野県に滞在していたインド人の朝のクラスでしたが、これがハタ・ヨガのポース中心のものだったので、私としてはたいへんがっかりした記憶があります。「なんだ、ただの体操じゃないか・・・」というような印象でした。私としては、なにかたいへんな超常体験でもあるのか・・・と期待していたものですから(期待はかならず裏切られるものだと知ったのはずっと後になってからのことです)・・・。

その後、しばらくしてから、沖正弘氏の「ヨガ入門」という本を読み、三島にあった沖ヨガの本部道場を訪れ、そこでヨガのアサナや沖導師特有の強化法・浄化法などの修練と共に「瞑想」の時間もありました。

でも、当時私は20歳くらいの若者だったので、強化法や浄化法など身体を激しく使う時間は楽しくてしょうがなかったのですが、30分くらい座るだけという瞑想の時間は苦痛と退屈以外のなにものでもなかったのです。



それから10年くらいたってから、私はインドに行くようになり、そこで今度は和尚ラジネーシという人の書いた「草はひとりでにはえる」という本に啓発されて、その人のコミューンのあったアメリカに行きました。そこでダイナミック瞑想だとかクンダリーニ瞑想などという激しい運動とそのあとの沈黙の時間が一緒になった瞑想を体験して、そこから瞑想が楽しくてしょうがないというふうに変わっていったのです。


それからもう20年以上たちました。

瞑想にたいする私の理解も態度もずいぶんかわりましたが、自分の人生の意味や意義を知るためには、必要不可欠なすばらしいものだという考えには変わらないものがあります。





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